2018年6月11日月曜日

地方移住ブンガクと『坊つちやん』の可能性 ~真面目ぶる企画Vol.3(仮)~

たまにはそれぶってみる

どもども、たっちーです。

何でしたか、得意科目。
少なくとも履歴書上では、大学で「文芸・ジャーナリズム」、大学院で「日本語教育」を専攻したことになっているためか、”日本語のプロ”なんて言われてしまう機会がしばしばあります。
が。

とととととと

とんでもなさすぎて! 鼻水でる!

お前本当は修了してないだろう、と今から取り消されてもおかしくないほどの知識量・学習量ですから、恐れ多いにもほどがあり……どうして当時もっと真剣に勉強しなかったのかしらん、なんて悲しくなってしまうのが実情です。

日本文学を語るのもおこがましいレベルなわけですが、最近個人的に「移住相談員ぶってそれらしいことを綴るフェア」を開催中、今回はひとつ移住×ブンガク的なことでも述べてみんとぞ思ふ。

では「移住」や「田舎暮らし」が若い世代にも一般的になりつつある昨今、”地方移住”×”日本文学”で思い浮かぶ作品といいますと?

なお「地方 移住 小説」でググっても、これというものはサクッとでてこない模様ですが……

こちらは太平洋


私は圧倒的に、『坊つちやん』を推したい。

日本で義務教育を受けた人は誰もが一度は読まされたであろう漱石先生の代表作ですが、なんかもうあれですよ、田舎暮らしってどんなんやろーと思っている人にとって必読の書といっても過言ではないかと。
(もっともそう感じたのは、実際に自分が地方に来てまもなく2年という今、たまたま再読したからなのですが)

義理人情、喧嘩、男女のスキャンダル、パワハラ、職場や地域の人間関係のゴタゴタ、……等々、「田舎暮らしのリアル」を伝える要素がとにかく凝縮された短編なのです。

東京の物理学校を卒業したばかり、「親譲りの無鉄砲」の坊ちゃんが数学教師として縁あって赴任したのは、愛媛県松山市。

高知の郡部に住む今の私から見れば、四国の中では高松と同規模の”お街”です。

が、東京以外には鎌倉しか行ったことがないという生粋の江戸っ子には、同地に足を踏み入れるなり「野蛮な所だ」と感じられ、「こんな田舎に居るのは堕落しに来ているようなもの」とまで言われてしまう。
(松山を訪れたことのある方はご存知の通り、街のそこかしこに「坊っちゃん」の文字があるぐらい作品にちなんだPRが盛んなれど、ここまで地元をズタボロに評する小説をよく町おこしに使えるなぁと思うほど作中での扱いは散々。)

瀬戸内が舞台です

当時と今の松山の”田舎度”そのもの正しさはさておき、都会育ちの人が地方で目の当たりにする出来事や、場面場面で抱く想い、考えの描写が実に巧みであり、「田舎あるある」が詰まっているのです。
(ネガティブなこともポジティブなことも両方映し出されていますが、松山をとかく軽蔑の対象として捉える人物のひとり語りゆえ、必然的に前者の割合が多くなりますね。)

主人公は竹を割ったような、を通り越したやや極端な性格の持ち主ではあるものの、だからこそ移住者が経験しやすい(であろう)感情の機微が読み手に分かりやすい形で描かれている気がします。

何かにつけて「東京では……」と比較してしまうところなんか、その最もたる例でしょう。
加えて、家族連れだったり並々の覚悟を持って来ていたりする一部の移住者の非難を覚悟して言えば、「いざとなれば辞めて帰ってやらぁ!」という身軽な、かつある種の無責任なスタンスの描き方も絶妙だと思うのです。

もっとも、物語のエピソードとして際立つように強調が過ぎるところもしばしばあれど、実際に地方に移り住んだ人は「あったなーこんなこと!」と思う部分がどこかしら見つかり、これから田舎暮らしを考える人にとっても参考になる部分が大いにあるはず。

何度でも会える

著者が28歳の頃、松山で中学教師として務めた経験が材料の一部になったと言われるだけあるなぁ、にしてもわずか1年ほどのことなのに、と漱石先生の圧倒的な観察力と筆力に敬服せざるを得ません。
(私なんか2年間かけてしょうもないイタズラ書きしかできんかったのに……まぁお札に描かれる作家と比べるのが間違っているけれど)

そんなこんなで(?)、”田園回帰”といったワードが市民権を得つつあるこのご時世、今後は”移住ブンガク”がひとつのジャンルとして発展していくのではと勝手に期待していたりします。
既に田舎・地方を舞台にした作品は数多くありますし、また先の朝ドラ『ひよっこ』のような上京モノ、すなわち地方から都会への進出を描いた物語は沢山あったわけですが、これからは都会→地方への動きに注目した作品も増えるのでは、と。

遡れば紀貫之の「土佐日記」はその先駆的なものといえるだろうし、古典や名作といわれるような古い作品も”地方移住”という切り口で新たな解釈が生まれるかもしれないな、とかとか。

さて余談ですが、文学との出会いというのは実に不思議なもので、同じ作品であっても「いつ読むか」で感じ取るものや面白さ、もたらされる意味合いが大きく変化するものが多いですね。

吾輩も猫


私にとっての『坊つちやん』はその典型で、最初に読んだ、否、恐らく読まされたのは確か中学生の頃でしたが、当時は漱石先生はおろか近代文学にあまり興味がなく、これといって良さは分かりませんでした。
むしろ、ネガティブにもポジティブにもあまり印象に残らなかった、といったところ。

新しい見方、新しいセカイ

そんな彼と再会を果たしたのは、某W大学の文学部(もどき)に入学した後、と大変に遅い(この程度のブンガク度合いの人間でも入れる文学専攻もいかがなものか)。

たまたま知り合った文芸専攻の先輩から「先生が面白いよ」とおススメされて潜り込んだ講義で、たまたま主題として取り上げられていた本作、ここで展開されていた読み解き方が実に、実に興味深かったので再読せずにはいられなくなったわけです。

ざっくりといえば、作品を通して姓名が明かされない主人公を、”坊つちやん”と呼んだ(恐らく唯一の)人である下女・清と主人公の二人に男女の関係を見出すというもの。

(初見の記憶が薄かったにしても)「そんな読み方ができるの!? 超オモチロイではないか!!!!」

と衝撃を受けましたよ、当時。

坊つちやんも釣りしてたな

言われてみると彼は、事あるごとに清は、清はと述べ、彼女からの手紙を待ちわび、松山の職を辞した後も再び東京で彼女と暮らすことを選び、また死後は坊つちやんの代々の墓に葬っている。

二十歳過ぎの青年と老女の間に感じとれるのは……

純愛か、はたまた官能の香りか。

当時の自分は後者として捉えたかな?

そして再び時が過ぎ、今になってもう一度出会えば、今度は主人公の”移住者”としての側面に自然と注目する私がいる。
だって、移住者だから(恋愛をしていないせいもあるか……)。

漱石先生が見て、聞いて、感じて、書いたことが、100年以上を経た今でもきっと色褪せていないと実感します。
であれば、地方への移住者を取り巻く状況も、また移住者たる人間も、本質的には変わっていないのかもしれません。

「田舎暮らしの資料」として貴方も一冊、手に取ってみては如何。

ほんじゃに。

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